昭和44年06月28日 夜の御理解



 もう二年にもなりますかね、私は小野先生の案内で湯布院に参りましたのは。あの時にここにもお供えしとられる大きな、あのう応接台あれと同じものがあちらにもあるんですが、その上にもう実に見事な風雅な、まぁ骨董品である事はまぁ一目で分かるような物が置いてあって、それを灰皿代わりに使ってあるんです、私「これまぁ見事なもんですが、そうとう時代もついているんですが、こりゃ大体何んに使ったもんでしょうか」ちゅうて私が申しましたら。
 「これはあのう昔侍の女房達がですね、主人が取って来るその敵の首を洗う首桶、首を洗う桶に使ったんだというんですね。見事なそのう銅で出来ました、あのう言わば今それを灰皿に使っておる、はぁ気持ちが悪い気味が悪い物ですけれども、実際ひとつも気味が悪いとも気持ちが悪いとも思わない、なるほど風雅なもんだなぁと思うて私見せて頂いた。だいたい私は臆病ですからそういう思うんですけれども、その事にそれね限っては一つも感じなかった。
 そうげな気味の悪いものここに置いて言うのではなくて、それが中々堂々とした大きなあのうテーブルの上に置いてある灰皿が見事でしたが。それがやはりそのう何百年という時代を経て参りますとですね、生々しい気持ちが悪いような道具に使った物でも、それが立派な美術品であり骨董品なんですからね。私はこれは金光教の信心に限らないことですけども、宗教のまぁ開祖宗祖といわれた時代には、確かに生々しい信心の喜びと言った様なものが必ずあった。
 それがだんだん百年、千年とこうそのう時代を経て参りますと、その宗教が生々しいものがなくなって来る。それはちょうどその首桶が何百年の後には立派な、美術品として応接台の上に置いても、気持ちが悪くないように同んなじ様なものがね、宗教にもあるそこに私は宗教のまぁ言うならば、落とし穴と言う様なものを感じるんすよねぇ。お道の信心でももうここに今年百十年というというその年、まぁだ他の大宗教に比べますとですね、まぁ本当に生まれたばっかりと言う様な感じですけれども。
 もう既に百年経っておる今日、もうこの信心の中にもですそう言う、なんか生々しいまでの信心信仰的喜びと、言った様なものがだんだんこう薄くなって、希薄になってきよる。そして形式を重んずるようになり、形だけになって来ると言った様な恐れが無きにしもあらずです。だけんここでだからお互い生き生きとした信心を頂かせて頂くものがですね、ここんところにその焦点を置いて信心の根本になるもの、これは私はあのう信仰を頂かなければ頂けない、生き生きとした喜びだとこう思うんです。
 この生き生きした喜びなしに形の事がなされるところから、形だけを重んずる事になる。生き生きした喜びがあってすればですね、それは非常にまぁ素晴らしいまぁ宗教的喜びの盛り上がりと、言った様なものが日常生活の上にも、様々な行事の上にもそれが現れて来るでしょうけれども。朝晩のこのお勤め、いわゆるご祈念なんかでもそうである。唯お勤め当のお勤めになってしもうておる。本当にさぁ今晩のご祈念でね、何を頂くだろうかと言った様なですね、その何かをそこから頂かせてもらわにゃいけん。
 何かをそこから改まされざるをおかんと言った様なですね。そう言う様なものを私共がそのう例えば御理頂きながら、ご祈念をさして頂きながら頂けれるというところ。信心にこのう生き生きしたもの、生きたものを欠いたらもう信心の値打ちはないと私は思うです。ですから唯それが形式的なお葬式の為に宗教があるとか、そう言う様なまぁ冠婚葬祭と言った様な事だけに宗教、が行じられるとするならばこれは大変な事。人の難儀を救われる、人の心がいよいよ光を放つ事が出来ることの。
 いわば道を教えておる宗教ですから、そこん所が常時取組まれなかったら、もう本当に信心さして頂いている事が、唯信心しておると言う事だけであって、ご祈念一つでもお勤めになってしまうという風に思うです。ですから成程今のお道の信心の中には、未だ修行と言った様なものがあって、例えば今一時のご祈念があぁして、一生懸命の汗を流してご祈念会があって、まぁ30分余りの時間じゃあるけれども、その中に何とはなしにもう暑さも寒さも忘れる様な。まぁ雰囲気と言う様なものが頂けるんですけれども。
 そういうだからその生き方も是非必要である。けれどもそれよりもっともっと大事な事は、根本的にですね自分の心にいつもこう信仰的感情というものが、頂けておらなければね、もうそれが終ったらもう後は四駄五駄になってしまう。本気で私達がですねぇ改まらして頂くとね、実意丁寧を本当に日常生活の上に地をもって、それを身に付けて行くと言う様な精進があって、始めてあの信心の賀びご信心に座らせて頂いたら、「今日もおかげを頂いて」というものが出来て来るんだと。
 又は心からお詫びの出来れる信心が出来るんだと、お詫びが本当に心からされる、そこには必ず信心の喜びがあらなけりゃならん筈のに、どうかそれこそしっぱらまぁくしてから、有り難さも無からなければ感動もない、そういう眠気どんがつくという位なですね、信心とか祈りであってはね、もう本当にこりゃゆゆしき事だと、だから信心が段々長くなって来れば来る程、特に教会内のそれに慣れっこになってしまう。
 マンネリになる訳ですね。有り難い話ももう大抵有り難い話を聞いても、一つも感動しないんですね。神様の前をもういつも通っておるもんですから、それこそ神様の前を通っても一礼する事すら忘れるですね。本当に心は私共はそういうところをです、こう取組んでいつも生き生きとしたものがですね、頂けれる工夫をそれぞれになされなければいけないと思うですね。
   どうぞ。